福山藩の礎をつくり発展させてきた藩主たち。
そのエピソードを紐解きながら、令和のビジネスにも通じる仕事術について考えます。

水野勝成の「働き方」

1619年の備後入封を機に、沿岸部の埋め立てや治水工事、現代にも通じるまちづくりを行った初代藩主の水野勝成は、「福山の開祖」といわれる。
まちづくりを行うには、当然ながら豊富な人材が必要。
移住してくる人に税の免除をする等の対策を取り、人口増加と経済の活性化を図った。
そうした藩の基盤づくりを継承したのが、勝成の子である2代藩主・勝俊だ。
現在の岡山で生まれ、幼い時から父と離れて暮らし、備後入封後も長らく鞆の別邸で暮らしていた勝俊は、父子の交流の時間は多くなかったと思われる。

しかしながら、藩主の座を継いだ際にはしっかりと初代の事業を継続させ、さらに食糧不足解消のため農業地の整備や、農業用ため池として春日池の造成にも着手。福山藩の発展に寄与した。
勝俊が亡くなった際には、当時禁止されていたにもかかわらず7人の家臣が殉死するほど、多くの人に慕われていた君主だった。

春日池(現在)

今月のビジネスパーソン

角田さん

株式会社 山陽管理
有限会社 山陽不動産

角田 千鶴さん

1969年創業、代々女性社長で営む不動産会社の3代目。若手起業家支援ビル『DioPorte』の運営や、学生専用コミュニティスペース『フクガクシェア』を手がける。

聞き手

皿海さん

福山城博物館 学芸員
皿海 弘樹さん

さまざまな文書・記録・遺物などから福山城と福山藩の歴史をひもとく案内人。福山城博物館での企画や展示解説、執筆なども行う。

角田さん
水野勝成は後継である息子とどう接していたんでしょうか。
皿海さん
勝成公は現在の岡山県高梁市成羽町に身を寄せていた時期があり、そこで2代藩主となる勝俊公が生まれます。ですが息子が2歳の時に、戦の気配を感じ単身京都に向かいます。それから9年後、入封していた刈谷に妻子を呼び寄せていますが、父子の交流は少なかったようです。
角田さん
現代から見ると家族の関わりが希薄なように思えますが、当時なら武士は武功を上げることが第一で、そのおかげで土地を与えられ藩主になれたわけですよね。仕事に邁進することで家族を支えたのかも。私は「イクメン」という言葉に違和感があって。子どもとの時間を多く持つお父さんだけが良いんじゃなくて、家庭ごとに価値観ややり方があっていい。お父さんが仕事に集中するという形をその家族が納得して選んだなら、それで良いと思うんです。
皿海さん
角田さんは先代から仕事をどう受け継いだのですか。
角田さん
当社を創業した祖母は、女手ひとつで育児と介護をすることになって、不動産業なら手数料が国によって定められているので、女性でも男性と同様に稼げるからと始めたそうです。がむしゃらに仕事をする姿をよく見ていました。一方で母からは、会社が持つ既存のノウハウも人脈も一切使うなと言われ、私自身で手探りで仕事を始めたんです。
皿海さん
仕事の信条はありますか。
角田さん
目先の利益よりも、人とのつながりを大切にすること。コロナ禍の今は、起業家にとってはチャンスです。既存のやり方が通用せず、誰にも正解がわからない。つまり、若手もベテランもみんな同じスタートラインに立てる。当社の起業家支援ビル事業も、そんな「福山の未来への種まき」と考えています。