福山藩の礎をつくり発展させてきた藩主たち。
そのエピソードを紐解きながら、令和のビジネスにも通じる仕事術について考えます。
水野勝成の「地域のつながり」
福山藩初代藩主の水野勝成は、福山城の築城にあたって周囲を芦田川と吉津川で囲み、防衛の要所には寺院や神社を置く、いわゆる「総構え」の構成でまちづくりを行った。
城下町の寺院や神社は、先祖供養と疫病や災害から身を守るという信仰と、有事の際に建物と築地塀で城と城下町を守る防衛の役割があったのだ。
町割りは、まず福山城の西部と南部に広く武家屋敷を選定。
東部には町人町を定めた。
その後、吉津川の北側に位置する丘陵地に、妙政寺や観音寺、福山八幡宮や艮神社などが建てられ、これらの寺社群は空襲の被害を免れて今も当時の姿を伝えている。
城の東エリアの一部にも、勝成の菩提寺である賢忠寺など、多くの寺院が建てられ「寺町」と呼ばれた。
また信仰心の厚かった勝成は、吉備津神社や明王院の再建にも力を注いでいる。
水野勝成が奉納した吊燈籠(福山八幡宮蔵)
今月のビジネスパーソン
福山八幡宮 禰宜
吉川 泰正さん
1979年生まれ。大学卒業後、太宰府天満宮にて5年間修業の後、福山八幡宮に奉職。(一社)福山青年会議所2017年度理事長などを歴任し、地域を盛り上げる活動に携わる。
聞き手
福山城博物館 学芸員
皿海 弘樹さん
さまざまな文書・記録・遺物などから福山城と福山藩の歴史をひもとく案内人。福山城博物館での企画や展示解説、執筆なども行う。
当神社はもともと、穏やかな内海の近くであった現在の福山城址に、二つのお宮が別々に奉祀されていたと伝わっています。
水野勝成公が福山の城づくりと城下町の整備をし、4代藩主の勝種公によって、「備後福山総鎮守」の社として現在の場所にお宮を建立されたのですよね。
以来、歴代の福山藩主とつながるお宮として350年続いてきました。つまり当神社は、福山の都市構想の中で造られたお宮というわけです。だから、商店が並ぶような「参道」もないんですよね。
ああ、確かに! 福山城は堀のない北側が防御の面で弱いので、寺社を城北エリアに集中させたのは「神仏に守っていただこう」という願いもあったのかも(笑)。
都市づくりでは、防衛や経済を直接担うわけではない〝信仰〞の場って、優先度が低くなりがち。それでもあえて初期に寺社を建立し支援をされたのは、勝成公の「地域の皆と同じものを、自分も大事にしているぞ」というメッセージでもあったのかなと思います。
守り伝えていくものと、変えていこうというものがありますか。
私は「神社はタイムトンネル」と考えていて。都市は形を変えても、神社の中はほとんど変わらない。私が見ているお宮の景色は、私のひ孫も見るはず。福山空襲の際、曾祖父は境内に落ちた焼夷弾に、濡れた座布団をかぶせてお宮を守ったそうです。この場所を変わらず守っていくという、大きな責任を感じます。また、人々のよりどころであるためには「利便性」も大事。駐車場が整っていて、ホームページがわかりやすいとか。ゴミひとつないキレイでスペシャルな場所であるように。そしてなるべく人と関わり合うようにと心がけています。