福山藩の礎をつくり発展させてきた藩主たち。
そのエピソードを紐解きながら、令和のビジネスにも通じる仕事術について考えます。
阿部正弘の「教育改革」
若くして江戸幕府の老中首座に就任した、福山藩阿部家7代藩主の阿部正弘。
就任早々に直面した国難が「黒船来航」であった。
幕府首脳は、ペリーが浦賀に来航する約1年前に、オランダを通じて来航の時期や目的をつかんでおり、準備を進めていた。
そしてペリーが国書を置いていって間もないある時、正弘は福山藩の家老たちに告げた。
「幕府改革を進めねばならぬが、まずはわが藩の学制を改革せよ!」。
国の難局に対応できる人材を育成することこそ、何よりも急務であると考えたためだ。
こうして設立された藩校『誠之館』は、八歳で入学し十七歳で卒業するまで、文芸はもちろん武芸や国学、洋学、医学なども教える、当時最先端の学び舎であった。
グローバルな視点を持つ人材を育てる学校の理念は現代まで受け継がれ、広島県立福山誠之館高等学校に伝わる資料等からも、創立の精神に触れることができる。
今月のビジネスパーソン
教育評論家
山口 哲治さん
広島県立福山誠之館高等学校をはじめ、複数の公立校で校長を歴任。
現在は福山誠之館同窓会の副会長を務める。
『誠之館』の理念を、現代の教育を通して伝えている。
聞き手
福山城博物館 学芸員
皿海 弘樹さん
福山城と福山藩の歴史をひもとく案内人。
現在改修工事中の福山城博物館リニューアルオープンに向けて、準備に奔走中。
地元の小学生を対象とした地域教育にも取り組んでいる。
現在、福山市にある広島県立福山誠之館高等学校が、福山藩の藩校だったことは知られていますが、創立した藩主・阿部正弘にはどういった想いがあったのでしょう。
幕政の改革等で実績を認められ、老中首座についた正弘公は、「黒船来航」の情報をつかみ、対応のための準備を進めていました。
そうした中で、「このままではアメリカに勝てない!」と強い危機感を持ち、この局面に対応できる人材が要ると考えたのだと思います。
そうした中で、「このままではアメリカに勝てない!」と強い危機感を持ち、この局面に対応できる人材が要ると考えたのだと思います。
当時、福山藩の藩校『弘道館』がありましたが、他藩と同じく、教えるのは儒学が中心。
それでは足りないと考えたのですね。
それでは足りないと考えたのですね。
『誠之館』では、蘭学や医学などといった、当時最先端の学問も教えていました。
それまでの藩校は座学が中心でしたが、『誠之館』では武術も教えていて、馬術や水泳なんかもあったようです。
それまでの藩校は座学が中心でしたが、『誠之館』では武術も教えていて、馬術や水泳なんかもあったようです。
まさに文武両道、そして国防や外交に強い人材を育てるカリキュラムだったのですね。
すごいなあ。
すごいなあ。
実は、藩校の頃の名前を今もそのまま残している学校は、全国に10校ほどしかないんです。
明治時代になると中央集権の体制になり、地方の藩校は形を変えることになりました。
でも『誠之館』は、「国を背負う人間を育てる」という学校だったので、そのまま存続したんです。
明治時代になると中央集権の体制になり、地方の藩校は形を変えることになりました。
でも『誠之館』は、「国を背負う人間を育てる」という学校だったので、そのまま存続したんです。
現代の教育現場に受け継ぐべきものは何でしょうか。
東日本大震災の時や、フィリピン台風の時に、AMDA(アムダ)から協力要請があり、誠之館高校の学生たちが真っ先に応えて支援に行きました。
「まず誠之館よりはじめよ」の精神です。
有事の時に動ける人を育てるためには、周りの大人が囲いすぎないこと。
失敗しても褒めるくらいで。
挑戦するその背中を、そっと後押しするのが良いと思います。
「まず誠之館よりはじめよ」の精神です。
有事の時に動ける人を育てるためには、周りの大人が囲いすぎないこと。
失敗しても褒めるくらいで。
挑戦するその背中を、そっと後押しするのが良いと思います。