福山藩の礎をつくり発展させてきた藩主たち。
そのエピソードを紐解きながら、令和のビジネスにも通じる仕事術について考えます。

阿部正弘の「共感力」

1853年、日本に開国を迫るため、ペリーがアメリカ・フィルモア大統領の親書を携えて浦賀に来航。
福山藩阿部家7代藩主で江戸幕府の老中首座であった阿部正弘は、その翌年にアメリカ船団が再来航するまでに、日本側としての回答を用意することとなった。
幕府は、大統領の親書を日本語に訳して、全国の諸藩や有識者などに送付し、意見を求めた。
100通以上にものぼる宛先には、かつて徳川家と対立していた「外様」の藩や、身分の低い人なども含まれており、立場やしがらみを超えて意見を吸い上げようとした阿部正弘の姿勢がうかがえる。
1854年、幕府は下田と函館の2港を開いて燃料や食料・水を提供することを約束する「日米和親条約」を締結。国中が揺れ動くほどの難しい選択を迫られつつも、国際法に則った平和的な落としどころへ着地させたこの結果は、外交的には大成功だったと評する声も少なくない。

合衆国伯理璽天徳書翰和解(がっしゅうこくプレジデントしょかんわげ)
(部分)(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

今月のビジネスパーソン

能楽師
大島 衣恵さん

能楽シテ方喜多流初の女性能楽師。
2009年度には福山JC理事長に就任。
福山藩主が登場する新作能「福山」を上演し、地元の文化を広く伝える。
大島家は阿部家の家臣だったという縁も。

聞き手

福山城博物館 学芸員
皿海 弘樹さん

福山城と福山藩の歴史をひもとく案内人。
現在改修工事中の福山城博物館リニューアルオープンに向けて、準備に奔走中。
地元の小学生を対象とした地域教育にも取り組んでいる。

幕府が全国に送ったフィルモア大統領の親書について、どんな意見が返ってきたのですか。
一説によると100通以上送ったうち、2通が「要求を受け入れる」で、水戸藩や長州藩などは「拒絶・開戦を辞せず」。
更に「様子を見る」「名言せず」等、様々でした。
前例のない事態ですし、い きなり答えは出しにくいですよね。
でも、正弘公も「答えがほしい」というよりは、意見を募ることで「自分事として考えてほしい」という思いがあったのでは。
組織って、大きくなるほど中心にいる人の意見だけで動くようになりがち。
「自分とは関係ない」と思う人が多くなってくると、物事はうまくいかなくなります。
それと、反対意見の人にも声を上げてもらうのは「ガス抜き」にも近かったのかな? と思います。
なるほど。
以前聞いた話ですが、正弘公は江戸城でとにかく一日中いろんな人に会って話をしていたとか。
彼が席を立ったら、そこにはすごい量の汗の跡があったそうです。
そんな大変なこと、やりたくてやっていたとは思えない。
自分の成すべきこと、使命感があったからできたのだろうなと思うんです。
仲間や部下が意見を言いやすい、話をしたくなるリーダーって、どんな人だと思いますか。
いいスピーチをするとか、 パフォーマンスをすることではなく、日頃見せている姿勢が大切。自分が主役じゃない場での振る舞いを見られている。
公正さや誠実さは、普段の言動から伝わります。
正弘公は、ひたむきに対話をして、表に現れないところでフォローをされていた。
ものすごい「人間力」を感じますよね。
藩校『誠之館』の由来になった「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」にも通じますね。