福山藩の礎をつくり発展させてきた藩主たち。
そのエピソードを紐解きながら、令和のビジネスにも通じる仕事術について考えます。

水野勝成の「プロモーション」

関ヶ原の戦い、大阪冬・夏の陣を経て、江戸幕府が力を蓄えていく時代。かつて徳川方と敵対していた国々のうち、島津家や毛利家といった西日本の大名を抑えるための最前線として置かれたのが、福山藩だった。徳川家康の従兄弟にあたる福山藩初代藩主・水野勝成が築いた城は、壮麗で鉄壁の守りを誇るもの。なかでも人々の目をひいたのは、城下町の開けた城の南側にそびえ立つ「伏ふしみやぐら見櫓」、「筋すじがねごもん鉄御門」、「御おゆどの湯殿」、「月つきみやぐら見櫓」の4つの建物だ。これらは、京都の伏見城から移築したものと伝わる。豊臣秀吉や徳川家康が住んだ天下人のお城・伏見城の一部を、人々からよく見える場所に設置したことで、福山城の権威を広く知らしめたのだと考えられる。明治6年の廃城の後、月見櫓は取り壊され、昭和20年の戦災で天守閣や御湯殿を焼失したが、伏見櫓と筋鉄御門は災禍を免れて今も築城当時の姿を止めており、国の重要文化財に指定されている。

明治初め頃の福山城写真

今月のビジネスパーソン

株式会社虎屋本舗 副社長
高田 海道さん

福山城の築城が始まった元和6年(1620年)に開業し、今年で創業400年となる和菓子屋『虎屋』の伝統を今に伝える。近く、第十七代当主を引き継ぐ予定。

聞き手

福山城博物館 学芸員
皿海 弘樹さん

さまざまな文書・記録・遺物などから福山城と福山藩の歴史をひもとく案内人。福山城博物館での企画や展示解説、執筆なども行う。

福山城の築城当時のことを伝える資料は、昭和20年の福山空襲でほとんど焼けてしまって、わずかに残るだけなんですよね。私は第十四代にあたる曾祖父から、創業の頃の話を聞かせてもらいました。
『虎屋』さんの創業は福山城築城の年と同じ元和6年で、京都の伏見城から伏見をはじめとする建物を運んだのだそうですね。
はい。当社の前身となる『高田屋』は、兵庫で廻船問屋と染物屋を営んでいて、水野勝成公の命で、伏見櫓を三艘の船で運んだそうです。この褒美として福山に土地を拝領し、当時城下には菓子屋がなかったため、創業したと伝わっています。城が完成する少し前に、城内で茶会が開かれ、その際に献上したお菓子が、当社の銘菓「とんど饅頭」なんですよ。
へえ! とんど饅頭はそういうお菓子だったんですね。勝成公が、高田さんのご先祖に伏見櫓をはじめとする建物を船で運ばせ、皆からよく見える南側に移築したことで、福山城の権威が示されたと考えられます。
福山城のプロモーション戦略だったわけですね。水野家の時代は、威厳や恐怖で藩を治めるのではなく、文化や伝統を大切にして人々の共感を得ていたと聞きます。菓子も文化を象徴するものですし、勝成公は城下を整備し文化を根付かせることで、町と人をデザインしたんだなと思います。
高田さんはプロモーションをどう捉えていますか。
今は、かつてないような時代の変革期です。老舗も既成概念を越えて、新しい価値を創る時。消費者は、伝統の中でもイノベーションのあるものに価値を見出します。今は、どこでも誰とでもつながれます。最近は特に県外の方に当社の試みを知ってもらうことで、福山を知ってもらうきっかけになればと思っています。