福山藩の礎をつくり発展させてきた藩主たち。
そのエピソードを紐解きながら、令和のビジネスにも通じる仕事術について考えます。
水野勝成の「都市創生」
元和五年(一六一九)に「西国鎮衛」の任をもって福山に入封した、水野勝成。それから約3年の月日をかけて、福山城の築城と、海の埋め立て、町人町などの都市整備を行った。武家諸法度で新規の築城が禁止されている中、幕府の援助のもとでこうした大規模な城づくりが行われたのは異例のこと。それだけ、福山藩は西日本の防衛拠点として重要視されていたのだ。
海の埋め立てと同時に、淡水を市内に引くための治水工事も行われている。芦田川から水を引き入れる人工川を作り、日本で5番目に古い上水道を侍屋敷や町人町(現在の本通り商店街周辺)に敷設。こうした公共工事の資金作りや地域経済の振興のために、水野勝成が全国に先駆けて作ったのが「藩札」。今でいう地域限定通貨だ。また、福山藩に移住してきた町人には「地子」といわれる市民税を一定期間免除するなど特権を与え、町人町の活性化を図った。当時移住してきた人々にちなんだ地名が、「笠岡町」などの町名として今も残っている。
水野勝成肖像画(広島県重要文化財・賢忠寺蔵)
今月のビジネスパーソン
(株)鞆スコレ・コーポレーション 専務取締役
村上 達彦さん
『鴎風亭』など鞆の浦で4軒の旅館を営むほか、東京・銀座の広島ブランドショップ『TAU』、外食事業などを展開。(一社)福山青年会議所2020年度理事長。
聞き手
福山城博物館 学芸員
皿海 弘樹さん
さまざまな文書・記録・遺物などから福山城と福山藩の歴史をひもとく案内人。福山城博物館での企画や展示解説、執筆なども行う。
水野勝成は入封後、福山城築城と、それを支える都市の整備を、わずか3年で実行したんですよ。
そのスピード感には驚くばかりです。
400年前に入封した際には、山陽道に近い神辺城に入城しています。その後、物流の大動脈である山陽道と、主要な外港であった鞆の浦とを結ぶ中間地点である常興寺山に、福山城を築きました。この場所を選んだ時点で、海の埋め立てや川から淡水を引くことも想定していたと思われます。
これだけのことを一から構想して、実行するのは大変だったはず。現代なら、地域経済全体での取り組みを速やかに実行するには、まず賛同者を増やして、一気に合意させるのがポイントだと思うんです。当時もそうだったのでしょうかね。水野勝成は、グランドデザインをもともと持っていたのでしょうか?
それについて私は、水野勝成という人の過去の経験がベースになったのではないかと思っています。彼は若い頃、父親を激怒させて水野家を追い出され、約15年間諸国を放浪しています。その間には、九州で加藤清正や黒田長政といった名だたる名将にも仕えています。各国でそれぞれの治世を見てきた経験は、自身の国づくりにも役立ったはずです。
なるほど。下積みの時代があったからこそ、いざ自分がリーダーになった時に、積み重ねてきた構想を形にできたのですね。そうした経験がなかったら、また違っていたかも。
そう思います。村上さんにも下積み時代はあったのですか?
私は家業を継ぐ前は、他県で旅行会社に勤めていました。いわばそれが下積み時代のようなものでしょうか。水野勝成が400年前に入封した際には、鞆の浦から上陸したといいますし、そこにも縁を感じますね。